2005年10月23日
生と死
「団塊の世代と自己実現」というシンポジウムをテレビでたまたま見た。
わからないのは「自己実現」という言葉だ。この言葉がはっきりしない。自己実現って何だ? 言いたいことはなんとなくわかるような気もするのであるが、要は「自分の能力やもてる感情で世間に縛られず、できる限り自分が納得いく気持で生きよう」くらいの意味なのかもしれない。
わからないのは「自己実現」という言葉だ。この言葉がはっきりしない。自己実現って何だ? 言いたいことはなんとなくわかるような気もするのであるが、要は「自分の能力やもてる感情で世間に縛られず、できる限り自分が納得いく気持で生きよう」くらいの意味なのかもしれない。
てんでおかしいよ、と思う。自己なんて、私は今もわからないし、きっといつまでたってもわからないのだ。それは80歳になっても90歳になってもだと思う。自分のことを考えてもわからない。物事は違うところからやってくるのだ。
あいまいな言葉「自己実現」しようと思って何かをする人などいないと思う。好きなことして暮らそう、とか、世に役立つことして暮らそう、とか、もっと勉強しようとか、具体的なことは考えているかもしれないが、まあ、だいたいこれまでの人生もだいたいできたのだから、私なんかは、まあだいたいでやっていくことになるだろう。
50代以上の人に言いたいことがある。
だいたいこのくらいの年になってくると、健康オタクみたいになり、健康神経症のような人が多い。好きでやっているのだからと言われそうだが、逆にこれも自分を縛るようなものだ。
健康神経症から解放されることが大事に思える。
次に世間からの自由である。人の眼にどう映るか、人の口に自分のことがのぼるか。どう思われているか、過剰に神経を配る。これも神経症のようなもので、僕はそんなことを気にしすぎている人はちょっとおかしいんじゃないの、と思う。あなたのことを人はそんなに気にかけてないよ、って言ってあげたいが、まるで芸能人であるかのように、気を配る姿はみっともない。
逆も同じで、人の噂話ばかりしている人もみっともない。そんな世間から逃げて、人のいないところで暮らすというのも、「世間から逃げる」というのであればみっともない。
さて、これまで何度かどこかで書いてきたと思うが、「生と死」について私が長い間考えてきたことを再度言いたい。根本的なことであると思っている。
「死」が怖いから健康神経症になる。「死」が怖いから「自己実現」などと言う奇妙な言葉が出てくる。それは生と死を何万年の宗教的概念が僕らの認識脳にプリントされているからだ。天国、地獄、あの世や霊界、こんな言葉が出るのは宗教である。「生老病死」という時間軸を作っているの何万年にもわたる宗教的概念が僕らに染みついているからである。
私は「誕生」というのは「受精の瞬間」だと考えている。その誕生の瞬間は自分のことなのに決して記憶できないものである。つまり誕生を僕らは知らないで生まれている。産道を出た瞬間に第三者は「誕生」と呼ぶだけのことで、自分は知らない。
当然、「死」についても第三者が見て、僕がいなくなったら「死」と認識するだけで、当の自分は知ったことじゃないのである。死など経験できるわけがない。臨死体験というのは瀕死の時の夢である。
「死」というのは「生の果てにあるものではない」。死(自分がいなくなるということ)はいつも生と歩調をあわせて並行して歩いているのだ。
自分から見た場合には、病気の次に死が来るなどと軽く、昔からの宗教的概念でいうべきではない。特別な信仰がない限りだ。もしも、「生老病死」という言葉を使うのならりっぱな宗教人である。この言葉を人々はあまりに無点検で使っている。
癌になったからと言って次の段階で死がくるものではない。癌を病んで、無事退院をしてその帰りに車の事故で死んでしまう、ということもあり得るのである。死は生の隣りにいつもいるのだから。死刑囚は死刑を待って死ぬこともあるが、途中で病気になって死んでしまうこともある。
「死は突然にやってくるものなのだ。そして自分にはわかないものである、というのが真実ではないか、と思うのだ。死をそんな風に認識すると、死ぬことを考えたり、怖がったりすることは無意味なように思える。
「生老病死」は第三者がとらえる時間軸である。それは正しい。何度でも言うが本人ではないのだ。
私の場合、母親の死の最後の瞬間を決めるのは私と姉になるだろう。母親はもう決められないはずだ。すでに隣りにいた「死」が母親に覆い被さっている。この意味で「死」は自分ではなく人のものなのである。それでよいではないか。それ以上も以下もない。それだけのことだ。なのに、健康神経症はないだろう、と僕は思ってしまう。全く健康宗教である。生まれて意識ができ始めてから、病気になってわけがわからなくなるまでの「死」など恐れることなく生きたらいいのではないか。すると階位のついた位牌や墓も意味がないし、そんなにお経を唱えなくてもちゃんと死ねる、と思う。
僕らの中にある疑わずに使っている言葉も一度疑ったほうがよいかもしれない。人間の誕生を生まれた日だとすれば、制度は誕生日から始まる。もしも僕が言うように生涯の始まりは受精の瞬間だと捉えれば、受精の瞬間から胎児の環境問題は考えなければならないこととなる。
「死」はいつも隣合わせにいるものだと考えると死の恐怖などケセラセラである。僕はそう本気で思っている。たぶんそういう点では僕は信心がなく、長い年月積み重ねられてきた宗教を越えてしまいたいと思っている。
あいまいな言葉「自己実現」しようと思って何かをする人などいないと思う。好きなことして暮らそう、とか、世に役立つことして暮らそう、とか、もっと勉強しようとか、具体的なことは考えているかもしれないが、まあ、だいたいこれまでの人生もだいたいできたのだから、私なんかは、まあだいたいでやっていくことになるだろう。
50代以上の人に言いたいことがある。
だいたいこのくらいの年になってくると、健康オタクみたいになり、健康神経症のような人が多い。好きでやっているのだからと言われそうだが、逆にこれも自分を縛るようなものだ。
健康神経症から解放されることが大事に思える。
次に世間からの自由である。人の眼にどう映るか、人の口に自分のことがのぼるか。どう思われているか、過剰に神経を配る。これも神経症のようなもので、僕はそんなことを気にしすぎている人はちょっとおかしいんじゃないの、と思う。あなたのことを人はそんなに気にかけてないよ、って言ってあげたいが、まるで芸能人であるかのように、気を配る姿はみっともない。
逆も同じで、人の噂話ばかりしている人もみっともない。そんな世間から逃げて、人のいないところで暮らすというのも、「世間から逃げる」というのであればみっともない。
さて、これまで何度かどこかで書いてきたと思うが、「生と死」について私が長い間考えてきたことを再度言いたい。根本的なことであると思っている。
「死」が怖いから健康神経症になる。「死」が怖いから「自己実現」などと言う奇妙な言葉が出てくる。それは生と死を何万年の宗教的概念が僕らの認識脳にプリントされているからだ。天国、地獄、あの世や霊界、こんな言葉が出るのは宗教である。「生老病死」という時間軸を作っているの何万年にもわたる宗教的概念が僕らに染みついているからである。
私は「誕生」というのは「受精の瞬間」だと考えている。その誕生の瞬間は自分のことなのに決して記憶できないものである。つまり誕生を僕らは知らないで生まれている。産道を出た瞬間に第三者は「誕生」と呼ぶだけのことで、自分は知らない。
当然、「死」についても第三者が見て、僕がいなくなったら「死」と認識するだけで、当の自分は知ったことじゃないのである。死など経験できるわけがない。臨死体験というのは瀕死の時の夢である。
「死」というのは「生の果てにあるものではない」。死(自分がいなくなるということ)はいつも生と歩調をあわせて並行して歩いているのだ。
自分から見た場合には、病気の次に死が来るなどと軽く、昔からの宗教的概念でいうべきではない。特別な信仰がない限りだ。もしも、「生老病死」という言葉を使うのならりっぱな宗教人である。この言葉を人々はあまりに無点検で使っている。
癌になったからと言って次の段階で死がくるものではない。癌を病んで、無事退院をしてその帰りに車の事故で死んでしまう、ということもあり得るのである。死は生の隣りにいつもいるのだから。死刑囚は死刑を待って死ぬこともあるが、途中で病気になって死んでしまうこともある。
「死は突然にやってくるものなのだ。そして自分にはわかないものである、というのが真実ではないか、と思うのだ。死をそんな風に認識すると、死ぬことを考えたり、怖がったりすることは無意味なように思える。
「生老病死」は第三者がとらえる時間軸である。それは正しい。何度でも言うが本人ではないのだ。
私の場合、母親の死の最後の瞬間を決めるのは私と姉になるだろう。母親はもう決められないはずだ。すでに隣りにいた「死」が母親に覆い被さっている。この意味で「死」は自分ではなく人のものなのである。それでよいではないか。それ以上も以下もない。それだけのことだ。なのに、健康神経症はないだろう、と僕は思ってしまう。全く健康宗教である。生まれて意識ができ始めてから、病気になってわけがわからなくなるまでの「死」など恐れることなく生きたらいいのではないか。すると階位のついた位牌や墓も意味がないし、そんなにお経を唱えなくてもちゃんと死ねる、と思う。
僕らの中にある疑わずに使っている言葉も一度疑ったほうがよいかもしれない。人間の誕生を生まれた日だとすれば、制度は誕生日から始まる。もしも僕が言うように生涯の始まりは受精の瞬間だと捉えれば、受精の瞬間から胎児の環境問題は考えなければならないこととなる。
「死」はいつも隣合わせにいるものだと考えると死の恐怖などケセラセラである。僕はそう本気で思っている。たぶんそういう点では僕は信心がなく、長い年月積み重ねられてきた宗教を越えてしまいたいと思っている。
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この記事へのコメント
1. Posted by 匿名 よその田舎物
2005年10月23日 22:16
人はただの個体です
魂の置き場所でしかありません
ただの分子がこれだけの物を作れる事自体が奇跡です・
まぁそれはさておき
自信過剰 まぁ金ある人の典型的な考えですなぁ
自分一人では生きれないって事わかりませんかねぇ・・・
田舎でそんな考えの人がいるって事は
田舎も終わりですね
ちょっと寂しい気がしますが
感謝や思いやり の気持ちがあればそういう考えはでないでしょう
もっと思いやりの心 もって下さい
魂の置き場所でしかありません
ただの分子がこれだけの物を作れる事自体が奇跡です・
まぁそれはさておき
自信過剰 まぁ金ある人の典型的な考えですなぁ
自分一人では生きれないって事わかりませんかねぇ・・・
田舎でそんな考えの人がいるって事は
田舎も終わりですね
ちょっと寂しい気がしますが
感謝や思いやり の気持ちがあればそういう考えはでないでしょう
もっと思いやりの心 もって下さい
2. Posted by
榎本→よその田舎物さんへ
2005年10月25日 11:02
どこが「自信過剰、金ある人の典型的考え」でしょうか。またどうしてここだけ{金ある人」と思いこむ、想像力が働くのでしょう。
また田舎のどこがなぜ、終わりなのでしょう。
「思いやりの心 もってください」というのは、私の文章に思いやりがないと受け取られたのだと思いますが、何が気にいらないのでしょう。そういうことも書かず、あなたは人の文を揶揄しているだけです。あなたの文章はまるで理解不能です。もっと堂々と書いてきたらどうでしょうか。
また田舎のどこがなぜ、終わりなのでしょう。
「思いやりの心 もってください」というのは、私の文章に思いやりがないと受け取られたのだと思いますが、何が気にいらないのでしょう。そういうことも書かず、あなたは人の文を揶揄しているだけです。あなたの文章はまるで理解不能です。もっと堂々と書いてきたらどうでしょうか。


